[2003-2-23]
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多摩川の渡し

[2003-2-9]  


矢切の渡し〜隅田川の渡し〜大井川の渡し と続いて, 今回は 多摩川の渡し。
そろそろ「渡し」にも飽きられてきたようなので, これでシリーズは打止め。


多摩川map 多摩川の源流は 山梨県の笠取山とされていて, 東京湾の羽田沖 まで 138km の長さがある。
途中 全長のほぼ真ん中あたりに 奥多摩湖 を挟んでいる。
右の地図で 奥多摩湖は もっと左上にはみ出したところにある。つまり この地図は 多摩川全体の長さの 半分以下の, 中流〜下流域しか表していない。

かつて 多摩川は“暴れ川”で, 流域が氾濫することがしばしばあった。 川の流れも 時代とともに 左右に大きく変わっていて, 現在とは 大分違うらしい。
近年は 奥多摩湖ができて 上流で取水されるようになり, 水量も減り 年間を通して 平均化されるようになったため, 余程の集中豪雨の時以外は 極端に水量が増えることもなくなった。
それでも 昭和49年の「狛江水害」で 何軒もの民家が流されたりしたのは 記憶に新しい。

そんなことも原因の一つだろうか, あるいは 徳川幕府が政策的に 架橋を禁止したためか, 明治になるまで 多摩川には 一つも橋が架かっていなかった。
いや 正確に言えば, 江戸時代初期に 一度 東海道が多摩川を渡るところ (六郷の渡しの地点)に 橋がかけられたことがあったようだが, 洪水で橋が流されたため 修理をあきらめ, その後は 渡し船でわたることになったという。 その間 80年ぐらいの 橋の寿命であった。

というわけで, 多摩川には 渡しの跡がたくさんある。一説によると, 記録に残るものだけでも 38ヵ所もの渡しがあったとされる。 隅田川の渡しが 18か所 と言われるのと比べると かなり数が多い。
その理由は, 多摩川が 非常に長い川であること (多摩川=138km に対して 隅田川=23km) と, 交差している街道の数が 多かったことなどが挙げられるだろう。

多摩川と交差する主な街道と, それに関連する 渡し跡 の名前を書き上げてみると, 次のようになる。
これらの渡しが始まった時期については, ほとんど記録がないようで はっきりしないが, 廃止された時期は 明治以降のことなので はっきりしている。 いずれも 近くに橋が架かったため 必要性が薄れて 廃止されたものである。

旧街道名渡しの名称渡しが廃止された年
東海道 六郷の渡し  明治6年
鎌倉街道矢口の渡し  昭和24年
中原街道丸子の渡し  昭和10年
大山街道二子の渡し  大正14年
稲毛道 押立の渡し  昭和17年
川崎街道是政の渡し  昭和16年
鎌倉街道関戸の渡し  昭和12年
甲州街道日野の渡し  大正15年
日光街道拝島の渡し  昭和24年


多摩川で 最も最近まで運航されていた渡しは, 「菅の渡し」で 昭和48年までである。
しかし実は, 現在でも 多摩川には渡し船が使われているところがある。

世田谷区の“等々力渓谷”(谷沢川)が 多摩川と合流する地点の近くに 「等々力の渡し」 碑がある。この近くに 東急ゴルフ場のクラブハウスがあり, 対岸にあるゴルフ場との間に ゴルフ客を運ぶための渡し船が 毎日運航されている。 ゴルフ場専用で 一般客は乗ることができない。

もう一ヶ所は, 菅の渡し碑の近くにある。ここは 対岸に「京王閣競輪場」があり, 川崎市側から 車で競輪場に行く人たちが, 川原に車を停めて 競輪場に行くためにあるらしい。 ここから最も近い 多摩川原橋 をまわると 2km以上の距離があるため, 近道として利用されている。 したがって 渡し船は 競輪が開催される日に限って運航されているという。
私がここを訪れた日は たまたま競輪の開催日でなかったため, それとおぼしき船は 遠くの鉄橋下に停泊したままだった。

東急ゴルフ場の渡し 競輪場の渡し
今でも毎日運航されている
東急ゴルフ場の渡し
競輪場の渡し
京王・相模原線鉄橋

多摩川の 渡し碑 を求めて 多摩川べりを歩きまわって, これまでに 16ヵ所の渡し碑を見つけた。丹念に探せば もっと見つかりそうである。
これらを 一つずつ紹介するのは あまりに長くなるので, 詳しくは 別項 『渡し碑コレクション』 を参照していただきたい。

渡しの碑は 坂道の標識と同様, それぞれの自治体(市や区)が建てており, 主に 教育委員会の担当になっているようである。碑のデザインなど 外観は 自治体によって大きく異なる。
以下に 自治体ごとの 渡し碑 の外見的な特徴などについて 比べてみる。

なお, 本来「碑」というのは 石碑のことを指すものらしいが, 渡しの碑は 必ずしも石碑ばかりではない。ここでは 説明の便宜上, 材質や構造は問わず 全部まとめて「渡し碑」と呼んでいる。

大田区
大田区の渡し碑
大田区の渡し碑は, 左写真のように 金属板に文字を手書きしたもので, 「丸子の渡し」「矢口の渡し」「六郷の渡し」は すべてこの形をとっている。 ぶっきらぼうで あまり愛想がないが, 十分な情報量があり 実用的である。

ただ一つの例外は「羽田の渡し」で, ここには 大きく立派な石碑がある。 表面には(どっちが表だ?)「羽田の渡し」と大きな文字が書かれ, 裏面には 昔の渡しの様子が銅板に浮き彫りされた図と 碑文がはめ込まれている。
他の渡し碑に比べて 羽田の碑は 新しく建てられたため このような格差があるのではないかと想像される。

世田谷区
世田谷区の渡し碑
世田谷区の渡し碑は, 「二子の渡し」「野毛の渡し」「等々力の渡し」と 3ヵ所にあるのが確認されているが, いずれも 小型の石杭である。 50〜60センチぐらいの長さだろうか。
表面には 渡しの名前と『世田谷区・玉川社団協』と 石碑を建てた責任元の名前が 彫られているだけで, 何の説明もない。 『玉川社団協』という団体も 何であるか不明である。

そもそも この種の碑は 何のために建てられるのかを考えると, 渡しの歴史的な背景などの 何らかの説明が書かれるべきではないだろうか。
裏面の『世田谷区・玉川社団協』の文字には 朱が入れてあって, オシャレな印象を与えるが, 見てくればかりで 内容のない石碑は 存在意義があまり感じられない。

川崎市
川崎市の渡し碑
川崎市は 多摩川の下流 右岸にあり, 対岸の東京都大田区・世田谷区・調布市などと 向かい合っているので,これらの地域から出る すべての渡しが こちら側にもあったはず であるが, 川崎市は 渡し碑の設置には あまり熱心でないのか, 現在までに私が確認できたのは 写真に示す 2ヵ所だけである。

写真左は「菅の渡し」。自然石を使った大型の石碑であるが, 川崎市の建てたものか どうかは不明。

写真右は 「六郷の渡し」で, 金属板に「六郷の渡しと旅籠街」と題する説明文が 書かれていて, 渡しの碑 というより 東海道の川崎宿の様子を中心に解説したもの。

府中市
府中市の渡し碑
府中市の渡し碑は, 「一の宮渡し」「中河原渡し」「[是政渡し」 「常久の渡し」「押立渡し」と 5ヵ所あって, いずれも 凝ったデザインの 2メートルほどの高さの 大きな石碑である。

墓石形の方形の石の上に 雑巾をしぼったような 不思議な形の石を載せている。 このデザインは 何を表しているのかよくわからないが, すべての 渡し碑 がこの形に統一されている。
さぞかし経費がかかっただろうと思う。碑文もしっかり書かれ 実用的にも 十分である。

昭島市 立川市 国立市
上流の3つの碑
多摩川中流の 3つの市 (昭島市・立川市・国立市)には それぞれ 1ヵ所ずつの渡し碑があった。 1市に一つの碑なので“市別の特徴”を見つけることもできないが, それぞれに 特徴がある。

写真左は「拝島の渡し」(昭島市)。
かつての 渡し船の写真と 説明文を金属プレートにして 板状の石にははめ込んである。碑の背後の壁は 高いところを通っている道路(16号線)の 擁壁で, 暗くて殺風景な場所にある。よく見ると 石碑は立派な造りなのに 場所が悪くて 印象がよくない。

真ん中の写真は「日野の渡し」(立川市)。
黒の御影石の上に 船の形の飾りを載せた 凝ったつくりになっている。
一般に 渡しの碑は, 市 あるいは 市の教育委員会が造っているのに対して, ここは “立川市観光協会”となっている。
碑文も ユニークで, 渡しの由来などではなく 文学的な表現。文学碑のようだ。

右は「万願寺の渡し」(国立市)。
金属板に書かれた碑で 大田区と同様, 実用一点張り。
(なお, 写真では小さくて分かりにくいかもしれないが, 「男」という大きな文字が読み取れる。これはペンキで書かれた落書)

それぞれの 渡し碑 のデータは「渡し碑コレクション」を参照してください。 渡し碑コレクション



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