渡し碑コレクション
羽田の渡し  [はねだのわたし] 


場所
東京都大田区本羽田3丁目
コメント
大師橋(産業道路)と 高速大師橋(首都高・横羽線)で挟まれた 土手上に 碑がある。 羽田空港に近く, 空港入口の 弁天橋まで 1kmの距離にある。
この渡しは 主要街道と直接つながっておらず, 東京・羽田地区と 川崎の大師地区とを結ぶ 生活道路的な渡しだったと思われる。

すぐ近くには 船溜まりを 多摩川の本流と仕切るための「羽田水門」がある。

大師橋は 昭和14年(1939)に完成した橋。交通量は非常に多いが 往復2車線と狭いため, 慢性的に渋滞を起こしていた。1991年から架け替え工事が開始され, 1997年に第1期工事が完成, 上り2車線 + 下り1車線となった。
現在は 第2期の拡幅工事が進められており, 往復6車線か完成するのは 2005年の計画。

斜張橋で 遠くから見た橋の姿は美しいが, 現地は 今なお工事が続いていて 混雑が激しく 混沌としている。

大師橋の下流側に 高速道路(横羽線)が通っている。

撮影日
2002年6月
碑文
羽田の渡し

 古くから, 羽田漁師町(大田区)と 上殿町(川崎市)を渡る「羽田の渡し」が 存在していたという (現在の大師橋下流, 羽田3丁目で 旧城南造船所東側あたり)。
 この渡しは, 小島六左衛門組が営んでいたので, 「六左衛門の渡し」 とも呼ばれていた。
 渡し場付近の川幅は 約40間(約80m)ぐらいで, 「オーイ」と呼ぶと 対岸まで聞こえたという。
 その昔, 徳川家康が狩りに来た帰りに, お供の者と別れて 一人でこの渡し場に来たところ, 船頭は 家康とは知らずに 馬のアブミを取った という伝説が伝わっている。
 ここで使われた渡し船は, 20〜30人の人々が乗れる かなり大きなもので, この船を利用して 魚介類, 農産物, 衣料品など, 生活に必要な品々が 羽田と川崎の間を 行き来していた。
 江戸の末には, 穴守稲荷と川崎大師参詣へ行き交う多くの人々が, のどかで野梅の多かった 大森から糀谷, 羽田を通り 羽田の渡しを利用するため, 対岸の川崎宿では 商売に差しつかえるので, この渡しの通行を禁止してほしいと 公儀に願い出るほどの賑わいをみせていたという。
 また, 明治後期から昭和初期にかけて, 川遊びする船も往来していた。
 物資の交流だけでなく, 人々の生活, 文化の交流など 大きな貢献をしてきた羽田の渡しは, 時代の変化とともに多くの人々に利用されたが, 昭和14年に大師橋が開通したことにより廃止された。
                       大田区

羽田の渡し 羽田の渡し
「羽田の渡し」碑 (表と裏)

大師橋 高速大師橋
「羽田水門」と「大師橋」
「高速大師橋」