渡し碑コレクション
宮堀の渡船場跡  [みやぼりのとせんばあと] 


場所
東京都北区神谷1丁目
コメント
(2005.8 書替)
北本通りと 環七通りの“宮堀”交差点から 西150m。北区立「宮堀児童公園」の中に 「宮堀の渡船場跡」の碑が建っている。<写真(1)>

また 地下鉄・王子神谷駅の少し北側に 北本通りに面して 「産業考古学探索路」という案内の碑が建っていて, この中に 「宮堀の渡し(宮堀渡船場)」についての説明が書かれている。<写真(2)>

碑文によると, 宮堀の渡しが廃止されたのが 昭和35年。新神谷橋が開通したのは 昭和40年とあって, その間の5年間は どうやって対岸に渡っていたのか 不思議に思われるが, 新神谷橋の500m下流に架かる新田橋は 昭和16年に開通しており, あまり問題はなかったのだろう。

北区の 王子〜赤羽周辺は, 各種の工場や 旧日本軍関係の施設が多数あった。 これらの施設は, 現在も 陸上自衛隊十条駐屯地など 現役の施設として残っているものもあるが, 多くは 住宅団地(例:陸軍被服本廠 → 赤羽台団地), 学校(例:陸軍第一師団工兵大隊 → 星美学園) などとして利用され, 民間工場の跡地も ショッピングセンター(例:王子製紙王子工場 → サンスクエア) などに変わっている。
現在は消滅してしまっている鉄道線路もいくつかあったが,それらの跡地は 現在は 地図上に残る地形などで わずかに判別できる程度である。

撮影日
2002年3月, 2005年8月
碑文(1)
宮堀渡船場跡
      北区神谷1-3 北区立宮堀児童公園

 説明版の奥の川沿いには, 大正時代末期から昭和35年 (1960)にかけて宮堀の渡船場がありました。
 この渡船場が設けられたのは, 荒川放水路が完成したことに よります。明治43年(1910)8月の東京大洪水を教訓と して翌年から荒川の河川改修工事が始められ, 大正13年 (1924)6月に荒川放水路の全線が通水しました。その結果, 足立区新田町の一帯は放水路と隅田川にはさまれて島のように 孤立した地域となったため, 北区と新田地域との間を往来する 2つの渡船場が設置されました。一つは野新田(やしんでん)の渡船場で, もう一つが宮堀の渡船場です。新田地域からさらに先の足立区側 へ赴くときは, 鹿浜の渡船場を利用しました。
 橋が少なく, 鉄道や自動車が普及していない時代には, 渡船 は重要な交通機関でした。神谷や十条に住む人々は, 宮堀の渡 船場を使って, 毎月21日の西新井の大師参りに出かけたり, 鹿浜へ虫切りといってカンの虫治療に行ったりしました。また, 桜の咲く季節には, 荒川堤へ花見に行く人々で渡船場は賑わい ました。
 しかし, 交通量の増大に対応して, 昭和37年(1962) 10月に新神谷橋の架設工事が着工され, 同40年(1965)10 月に片側車線が開通し, 環状七号線が足立区側へ入ることな りました。宮堀の渡船場は, 新神谷橋の架橋によってその役目 を終え, 昭和35年の冬に廃止されました。
    平成8年3月
            東京都北区教育委員会

碑文(2)
宮堀渡船場

 宮堀の渡しとよばれる渡し船の発着場が, 現在の新神谷橋のところに 昭和30年代の末 頃までありました。
 この渡船場は 神谷と新田とを行き来する 人々に利用され, 荒川堤の花見や 西新井大 師へのお参りなどにも利用されていたよう です。しかし, 環状七号線, 新神谷橋の完 成により, その使命を終えました。

(1)宮堀渡船場跡碑
 (1)宮堀渡船場跡 碑
(2)産業考古学探索路碑
 (2)産業考古学探索路 碑