渡し碑コレクション
梶原の渡船場跡  [かじわらのとせんばあと] 


場所
東京都北区堀船4丁目
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JR尾久駅の北 約800m。隅田川に面して 読売新聞と日刊スポーツの印刷工場などがある。 工場の周辺を“堀船周回ロード”と呼ばれる遊歩道が囲んでいて, 北西端の白山堀公園 (隅田川土手)に 写真に示す碑が建っている。

碑文には「キリンビール東京工場の敷地」と書かれているが, この地は 何回かの 変遷を重ねてきた。
この一帯は 1908[明治41]年に「下野紡績」の工場ができ, のちに 合併により「東洋紡績」となった。 第二次大戦前には「陸軍造兵廠」となって 爆弾の信管などが作られた時代があったが, 戦後「キリンビール東京工場」となった。
1998年に キリンビールが撤退し, その跡地に 読売新聞などが印刷工場を建てた。

撮影日
2005年8月
碑文
梶原の渡船場跡
        北区堀船4-2 北区立白山堀公園

 この奥の隅田川沿いには, 明治・大正・昭和にかけ て, 対岸の宮城村(足立区)との間を結ぶ渡船場があり ました。
 明治41年(1908), 現在のキリンビール東京 工場の敷地に下野紡績の工場ができ, 対岸からも人々 が工場へ通勤するようになりました。そこで, 両岸の 梶原・宮城地区の住民有志が出資してつくった船の発 着場が, この梶原の渡船場です。
 子供の頃から父親とともに, 船頭をしていた方の話 によると, 最初, 運賃は大人一銭・子供五厘・荷車一 銭五厘・自転車一銭だったそうで, この渡しができた ことで, 地域の住民の交通の便が非常に良くなりまし た。また, 荷車という運賃があるように, 駒込にあっ た市場に野菜を出すための交通路としても利用され, 毎日15台以上が隅田川を船で往復していたそうです。
 第2次世界大戦中には, 足立方面などに軍需工場が 多くなり, 工場へ通う通勤者の行き帰りの足として混 雑したそうですが, 交通手段の整備とともに, 渡しが 使われることも少なくなり, 昭和36年(1961), その姿を消しました。
    平成8年3月
              東京都北区教育委員会

梶原の渡船場跡碑 隅田川
梶原の渡船場跡 碑
隅田川土手
左が隅田川, 右は読売新聞