中山道戸田渡船場跡 [なかせんどうとだとせんばあと]
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場所 |
埼玉県戸田市川岸3丁目
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コメント |
中山道が荒川を渡る橋。戸田橋の北岸(埼玉県側)で 土手沿いに東側に下りて行くと,
JR東北新幹線・埼京線の鉄橋をくぐった先の 水神社の手前に,
立派な白い石柱と 戸田市が設置した説明板が並んで建っている。
石碑のある場所は, 堤防の外側(川の反対側)で ガードレールで車道と分離されていて,
人間も容易に入り込めない場所。
どうして わざわざこんな不便な場所に建てたのかと 不思議に思う。
現在中山道と呼ばれている国道17号線は 新しい道で,
旧中山道の道筋は 現在ではほとんど残っていない という。
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撮影日
| 2005年2月 |
碑文
| 中山道戸田渡船場跡
戸田の渡し
中山道は木曽街道・木曽路と呼ばれ, 山々の間を縫う街道として, 京
と江戸を結んでいました。街道として整備されたのは, 慶長7年(1602)
のことです。宿駅は67, 越える川は大小10以上を数え, 荒川
は江戸を出るところに位置していました。この荒川には江戸防衛の意か
ら橋が架けられず, 人々はここを越えるには船による渡しに頼らざるを
得ませんでした。これが中山道「戸田の渡し」です。江戸日本橋をでて最
初の宿駅である板橋宿と, 次ぎの蕨宿の間にあり, 交通の要衝でもありました。
この渡しは, 資料によると天正年中(1573〜91)よりあったと
され, その重要性は近世を通じて変わらなかったといいます。渡船場の
管理は下戸田村が行っており, 天保13年(1842)では家数46
軒, 人口226人でした。その中には, 組頭(渡船場の支配人)
1人, 船頭8人, 小揚人足31人がいました。船の数は, 寛保2年
(1742)に3艘だったものが, 中山道の交通量の増加にともなって, 天
保13年には13艘と増えています。
また, 渡船場は荒川を利用した舟運の一大拠点としての機能も有し,
戸田河岸場として安永元年(1772)には幕府公認の河岸となっています。
天保3年(1832)には5軒の河岸問屋があり, 近在の商人と手広く取引を
行っていました。これらの渡船場の風景は, 渓斎英泉の「木曽街道六拾九次」の
錦絵に描かれ, 当時の様子を偲ぶことができます。
やがて, 明治になり中山道の交通量も増え, 明治8年(1875)5月に木橋の
戸田橋がついに完成。ここに長い歴史をもつ「戸田の渡し」が廃止となりました。
平成5年3月
戸田市教育委員会
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