渡し碑コレクション
浦賀の渡し  [うらがのわたし] 


場所
神奈川県横須賀市西浦賀町1丁目〜東浦賀町3丁目
コメント
京浜急行の浦賀駅前の三叉路を, 南に約1.5km進むと 東の渡船場, 南西に約1.5km進むと 西の渡船場に行きつく。

ここは 現役の渡し船で『浦賀の渡し』と書かれた説明板はあるが, いわゆる「渡し跡の碑」ではなく, 看板 のようなもの。 参考として 下記に掲載する。

「愛宕丸」という船が1隻のみ運航していて, 時刻表はない“シャトル運航”。
普段は 東側の渡船場にいて, 西の渡船場から乗る時は 桟橋の押しボタンを押すと すぐにこちらに向かってくれる。 見ている限り 朝7時から夕方6時までの運航時間内は, (昼休み 12〜13時 を除いて) ほとんど休みなく動いているようだ。
料金は 大人 150円, 小中学生 50円, 犬・自転車・ベビーカーなど 50円。
乗船すると 対岸につくまで 2〜3分。とても 渡し船の風情や情緒を楽しむことはできないが, 住民の生活に溶けこんだ 「今も生きている渡し」として 貴重な存在である。

撮影日
2003年2月
説明文
浦賀港と渡船   (横須賀風物百選  昭和52年市制施行70周年記念)

 室町時代に, 聖護院準后道興が著した紀行文・廻国雑記(1486年)に 「――浦川の港といへる所に至る。こゝは昔 頼朝郷の鎌倉にすませ給ふ時, 金沢・榎戸・浦河とて, 三つの湊なりけるとかや――」とあります。 そこが現在の浦賀港を指すものであるかどうかについては, 歴史家の間に疑問があるようです。しかし, 「浦賀みなと」の名称そのものが, 書物の中にみられる最初のものです。 いずれにしても, 浦賀港が三浦一族や 後北条氏によって使われていたことは 確かなようです。
 この良港に注目した徳川家康は, ここを外国貿易の根拠地にしようと考えました。 英人ウィリアム・アダムスを逸見に住まわせ, しきりにイギリスやオランダなどの 商船を この湊に引き入れるよう努めました。
 享保5年(1720), 浦賀奉行が置かれると, 江戸湾に出入りする船は, すべて浦賀で船改めすることが 義務づけられました。そのために, 浦賀の町は大いに栄えました。 以後, 浦賀港は, 黒船の来航, 咸臨丸の出航, 日本最初の洋式船鳳凰丸の建造の地として, さらには浦賀船渠株式会社の設立と, ことあるごとに歴史の舞台に登場してきました。
 この湊は, 湾が約1.5キロメートルも入り込み, 東西両岸の住民が往来するのには, 渡船を利用することが最も便利でした。したがって, 渡船は早くから開かれていたようです。 明治9年編さんの皇国地誌には「浦賀渡ト呼ブ町往来ニ属ス・・・ 船2隻ヲ用ヘテ往復ニ便ナラシム私渡ニシテ修繕民費」とあるところから, 最初は民営の渡船であったようです。大正6年には, その重要性を評価されて, 浦賀町営となりました。さらに昭和18年4月1日, 浦賀町が本市に合併されると, 渡船事業も市営になりました。 昭和24年以後, 渡船の運航業務を民間に委託し, 現在に至っています。
 また, 平成10年に就航120周年を記念して新船「愛宕丸」を建造しこれとあわせ, 全国でも珍しい 水上に市道の愛称を募集し「浦賀街道」に決定しました。
 唯一の市営交通事業である渡船で, 昔をしのびながら, 浦賀港横断をお楽しみください。

浦賀の渡し
浦賀の渡し 浦賀の渡し
「浦賀の渡し」
『浦賀港と渡船』解説

浦賀の渡し 浦賀の渡し
船待ちの小屋
浦賀の渡し 地図