JR中央線の三鷹駅から北西に500m。桜通りの“けやき橋西”交差点から150mほど北に,“東海大学松前記念館”がある。ここから更に50mほど北の交差点角に,木造の建物と茶色の2階建てのコンクリート造の建物があり,道路に面して「望星学塾発祥の地」と刻まれた黒い石碑が置かれている。
また碑の前には,「望星学塾記念館」「望星学塾発祥の地の碑」と書かれた,白い説明板が添えられている。
東海大学の創始者・松前重義は(旧)逓信省で『無装荷ケーブルによる多重通信方式』等の画期的な発明を行った技術者で,後に逓信省の工務局長。戦後は衆議院議員となった。
松前は青年時代に内村鑑三主宰の聖書研究会でデンマークの宗教思想家ニコライ・グルントヴィの教育運動を知り,自らも教育者の道を志した。1933(昭和8)年にドイツに留学した際にデンマークで国民高等学校に寄宿し,その教育事情をつぶさに視察。帰国後「長距離無装荷ケーブル通信方式」の研究に対する奨学祝金を基金として,東京・武蔵野にデンマーク国民高等学校を範とした小さな私塾「望星学塾」を開いた。(この学塾は後に東海大学設立の母体となった。)
当時の学塾の主な活動は,教育研究・聖書研究・出版事業等 多岐にわたった。その中で学塾の精神を広く世に問うために,講師を招いて塾舎で開く講演会と 塾舎外で一般人を対象とする講演会活動が行われた。
松前は 太平洋戦争開戦後,日本の国力はアメリカに遠く及ばないと主張し,東條内閣と対立した。その結果 1944(昭和19)年に 逓信省工務局長という高官であるにも拘らず 二等兵として召集されて南方戦線に送らるという懲罰的な処遇を受けた。そのため望星学塾は休止の止むなきにいたった。
戦後 学塾の活動が復活し,1981(昭和56)年に“松前学塾記念館”を建設。現在は,“東海大学望星学塾”として 地域に根ざした生涯教育の場として活動しており,月例の“望星講座”(各方面の専門家を講師に招いた講座)の開催,健全な青少年の育成と生涯柔道を目指した“松前柔道塾”などを実施している。