追分節発祥の地
碓氷峠の
権現様は
わしが為には
守り神
浅間山さん
なぜ焼けしやんす
裾に三宿を
持ちながら
(説明板)
追分節発祥の歴史過程 (■部分は文字を読み取れない)
追分節発祥の歴史過程
江戸初期 軽井沢は関東・信濃・北陸方面を結ぶ玄関口として
重要視され, 中山道が整備改修されると, 東海道と共に江戸と
京都を結ぶ重要幹線として, 街道の様相も一変してきた。
慶長9年(1604) 宿駅が制定され, 軽井沢・沓掛・追分の三宿
が設けられ, 更に寛永12年(1635) 参勤交代制度と共に
三宿は諸国の大名通過などで繁栄をきわめた。なかでも,
追分宿は中山道と北国街道の分岐点として栄えた。軽井沢は
浅間根越の三宿として名高く かつ関東・上州方面への物資や
旅客輸送の為, 東信一帯の中馬や馬子衆の一大集結となった。
かかる歴史的・地理的条件からして 必然的に労働歌的馬子唄
が生まれ■■素地が■■■■にあった。
「碓氷峠の権現様は わしがためには 守り神」
浅間山の自然や碓氷峠の熊野権現を, 馬子たちは自分の
守り神として畏敬の念を持って歌っていた。その馬子唄に■
軽井沢三宿の飯盛女達が, 一上り・三下り・本調子の三味線伴奏
の手を工夫した元歌と思われる馬子唄時代の代表的な歌詞
「わしがためには」の部分を諸客に対する語として「主のために
は」と替えたり, 新作歌詞や囃子詞も付け「追分節」が完成された。
なかでも三下り調の追分節(馬子唄詞・座敷唄詞)は, その主流となって
諸国に広く伝承伝播され, 特に関東以北では 新潟県の越後
三下り(越後追分の母体), 秋田県の本荘追分になり, 更に北海道
に渡って 江差三下り(江差追分の母体)などに発展していった
とされている。
かかる点から「追分節」は諸国にある追分節の源泉といわれ
それが今日の定説となっている。
「追分節発祥の地」
石碑建立実行委員会