発祥の地bannar
大津絵発祥の地
 [おおつえはっしょうのち]


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場所
滋賀県大津市横木1丁目
コメント
京阪京津線の追分駅から西に400m。
大津市が京都市山科区と接する境界付近,西大津バイパス(国道161号)が東海道と合流する“勝野南ランプ”のループの中に“井筒八ッ橋本舗”の追分工場店がある。
店の入口(駐車場)に「大津絵発祥の地」および「日本そろばん発祥の地」と書かれた2本の石碑が並んで建っている。

大津絵とは,江戸時代初期から 滋賀県大津市(大谷・追分辺り)で描き売られていた民俗絵画で,さまざまな画題を扱い,東海道を行き交う旅人たちの間の土産物・護符として知られていた。
もともとこの民画は仏画より始まり,庶民の一種の免罪符のような役割を持っていたとされりが.時代の推移と共に様々な図柄が生まれ,仏画・風刺画・武者絵・美人画・鳥獣画など百種類以上に達する。

大津絵の歴史については,井筒八ッ橋の店の中に 次の説明が書かれている。

      大津絵(追分絵)の歴史

 江戸時代,大谷・追分付近は,京都と伏見・宇治への街道の分岐点として,多くの旅人の往来で賑わいをみせ,各種の土産物屋が街道沿いに軒をつらねていました
 中でも「大津絵の筆のはじめは何仏」と芭蕉にも読まれた大津絵は,全国的にその名が知られています。その始まりは,寛永年間(1624〜1644)逢坂山のふもと,旧東海道筋の大谷・追分付近で町絵師が素朴な仏画を描いて旅人に売ったことからと伝えられています。享保一九年(1734)膳所藩士寒川辰清(さむかわたつきよ)の著わした「近江輿地志略(よちしりゃく)」には,「大津絵,大津大谷町の土人描きて是を売る,家毎にあり或は追分絵とも云う。追分より折原町の辺堤ある故に名づく」とありますが,その多くは鳥子紙(とりのこがみ)などに泥絵の具(どろえのぐ)で描いたもので,画材には元禄時代(16868〜1703)頃までは仏画が多く,その後は弁慶の鐘,藤娘,寿老人など庶民的で親しみやすいものが選ばれるようになってきました。また,藤娘は愛嬌と良縁,鬼の念仏は子どもの夜泣き止めと,護符として庶民信仰とも結びつき一層流布したようです。江戸時代には,大津三十七仲間の一つとして大津絵屋の同業組合までできたほどですが,明治二十年代を最後として大谷・追分の地から姿を消し,街道筋の賑わいも今では古書の記述に名残をとどめるばかりです。

また,京阪・追分駅には,大津絵の由来の説明と,代表的な大津絵である“鬼の寒念仏”と“藤娘”が掲示されている。

      大津絵の由来
大津絵は寛永年間(1624〜43)頃より書き始められ,現在に至っています。
芭蕉の有名な句に「大津絵の筆のはじめは何仏」とありますが,これは大津絵師の書き初めは何の仏かという意味で,初期は大衆の信仰の対象として数多くの神仏が描かれました。当時幕府はキリシタンを弾圧していましたので,庶民にとっては仏画が一種の免罪符的な役割を果たしたとも言われています。
時代と共に世の中が安定してくると,風俗や風刺画も描かれるようになり,その画題は百数十種を数えます。宝永五年(1708)近松門左衛門が大津絵師を主人公にした浄瑠璃「傾城反魂香(けいせいはんごんこう)」が上演され,大津絵は全国に広がりを見せました。
また,現在も根強い人気を持つ「鬼の寒念仏」や「藤娘」なども登場し,絵そのものも何時の頃からか地名をとって「大津絵」と称されるようになりました。
一時交通形態の変化により衰徴しましたが,現在では日本の代表的な民画としてその技法が継承されています。

撮影日
2010年1月 (写真提供 T.H.さん)
碑文
大津絵発祥の地


 
大津絵発祥の地碑 「藤娘」と「鬼の寒念仏」
大津絵発祥の地 碑

「藤娘」と「鬼の寒念仏」


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