戻る 【時の鐘】へのコメント集   [2005-6-21] 


『時の鐘』に多数のコメントをいただき, ありがとうございました。 その中から 一部を紹介させていただきます。
  (全部を掲載すると とても長くなるので, 全体の一部のみです。 ご了承ください。)
  (文章を短くするなど, 適当に編集してあります。)

========= あちこちの鐘 ===============

【N さんから 】
川越生まれなので、時の鐘というと、反射的に川越多賀町の時の鐘を連 想します。上野、浅草の鐘は知っていましたが、石町の鐘は、よく近く を通りながら、気が付きませんでした。今度見てきます。

「伊能大図」から一ヵ月で「時の鐘」、「はまだより」も完全復活ですね。 次回を期待しています。


川越の時の鐘
【Y さんから 】
いつも新しい情報 楽しく読ませて戴いています。
「時の鐘」は川越(城)の専売特許とばかり思っていました。

時代劇の映画等見る時に、登城の合図として、ふれ太鼓のシーンが印象 にあり「水戸様、御登城・・」とか、赤穂浪士の緊急登城の太鼓とか。 大岡裁きでは確かに鐘でしたよね?
新知識が吸収できる「はまだより」今後とも一層のご活躍を期待してます。


時の鐘(町鐘)が置かれた後も, 江戸城内では 昼夜十二回 太鼓を打って 時を知らせており, この太鼓の音が 城内の行動の基準になっていたようです。 明六つ(6時)の太鼓が鳴ると 江戸城の見附の門が開かれ, 五つ(8時)で若年寄が登城, その後順次上級の奉行たちが登城し, 四つ(10時)になると ようやく老中が出勤。午後は 八つ(2時)には退城していき, 暮六つの太鼓で 門が閉じられたといいます。
緊急時の「総登城」などという太鼓は 別に決まりがあったのでしょう。
また, 地方の城は 何事につけ江戸城にならっていたことが多いようなので, 同様の習慣があったと思います。
【T さんから 】
「時の鐘」を懐かしく拝見しました。
私が小学生時代を過ごした埼玉県岩槻市にも「時の鐘」があり、 良くそこで遊んだ想いでがあります。 毎日、六つ(18時)の「時の鐘」が鳴ると、お腹が空いた、お家 に帰ろうと思った記憶があります。 近くには、「時の鐘もなか」なる和菓子を作っているお店もあっ たと思います。

【K さんから 】
懐かしく拝見しました。長野の松代は両親の実家なので何度とな く子供のころから遊びに行きました。真田真之の城下町です。
母の実家にも どの時代かの鎧と兜が置いてあったのを思い出します。

【Y さんから 】
とても詳しく調べられていて、すごいなあと感心しました。
私は太宰府天満宮の近くに住んでいて、周辺には日本最古の鐘 といわれる観世音寺の鐘があります。あれは「梵鐘」らしいので お坊さん用の鐘だったのですね。

【S さんから 】
浅草に住んでいますので 浅草寺と上野の鐘はお馴染みです。石町は職場 から昼休みに往復できる距離ですから 一目拝見してきます。
郷里秋田の城内にあった 懐かしい鐘突堂は建て替えられて 今も健在だそうですし、 九州唐津にある太鼓堂が見事でした。定刻には侍姿の人形がせり出して 太鼓を叩く形を見せます。太鼓の音が録音なのが惜しいところです。

========= 時の呼び名・不定時法 ============

【T さんから 】
『時の鐘』は興味深く読みました。
今まで池波正太郎の「鬼平犯科帳」や 藤沢周平の諸作品を読んでいるとき 時刻の表現が出て来るのですが、 あまり正確に「現代の時刻」変換せずに読み飛ばしていた。 今回の絵入り説明は判りやすく参考になりました。

【G さんから 】
時の鐘 拝読しました。
「小伝馬町」町名からして江戸時代という光景が彷彿とします。 今回の記事で,「時の鐘」「暮れ六つ」,「明け六つ」など、 現代の時間との符合をよく認識できました。
また鐘楼櫓の下で蕪村が俳諧の集いを開いていた風情が眼に見えるようです。 また芭蕉の句も そうだったのかと実感できました。
石町の 時の鐘は処刑の合図にも使われ 、延命を祈るがごとく その 都度遅れたとありますが。鐘をつく人の気持ちを思い「情けの鐘」と呼 ばれたとのこと、人の情けをしみじみと感じます。有難う御座いました。

【S さんから 】
時の鐘、拝読させていただきました。
江戸時代は、時計が身近になかったんですね。 「不定時法」というのもなにか不思議な気もしますが、 日の出 日の入りという自然のリズムに合わせて、 時の鐘がなっていた時代に情緒を感じます。

【M さんから 】
「時の鐘」を探索して回られたんですね。さすがに抜群の機動性!
時の鐘というのがあちこちにあったとは、知りませんでした。 これ、どこか、例えば、幕府天文方かどこかに、「標準時測定機器」 のようなものがあって、ここでの時報が各所に伝えられて、あっちで ゴーーーン、こっちでも、ゴーーーン、ということなんでしょうか。 それとも、各所で独自に?

不定時法では、夏至時分では、午前4時前で明六つ、午後7時半 ころが暮六つ、冬至ころではこれが、朝6時と午後5時くらいだったと、 「日本農書全集」の附録にも書いてありました。5時間近い伸び縮みが あったんですね。今の就業に適用すると自然とともに暮らすという 意味では、アメリカ式の夏時間採用よりも優れているのかも。
楽しい話題をありがとうございました。


基本的には 鐘はそれぞれの場所で, 独自に時刻を測って撞いていたのでは ないかと思います。
江戸城の太鼓を基準にして時の鐘が鳴った という意見もあるようですが, 太鼓の音は それほど遠くまで届くものではないし, 時の鐘相互の距離は 互いの音が聞こえる範囲を 超えていたように思われます。
ただし 寺の梵鐘のような (公認の鐘以外の) 所では, 時の鐘をもとにして撞いていた 可能性は高いと思います。

それはそうと, 夏と冬で 4〜5時間も昼の時間が違うとなると, 「夏に働くと損だ」 という不公平感はなかったのでしょうかね。 夏の職人の手間賃が 30%〜50% 高かった, などどいう習慣はなかったようですが。

========== 音 =============

【O さんから 】
鐘となると、音が聞きたくなりますね。
海外旅行の際も、教会の鐘の音を聞くと、教会によって様々なので、 VTRを録音するためだけに、まわすことがあります。
日本の寺院もそうだし、この時の鐘も様々かと思います。
しかし、こんなにも残っているんですね。驚きました。

【S さんから 】
「時の鐘」大変勉強になりました。わたしにとって当時の鐘の音は 時代劇の中や近隣の寺からの音からしか想像できなかったのですが、 当時江戸八百八町に響き渡る鐘の音の効用はかなり大きく、 人の世の喜怒哀楽をともにしていたことをほんの少し理解できました。
有難うございました。

【K さんから 】
大変詳しく調べていて、興味深く拝見させて頂きました。
時の太鼓はかなりの数が残されているそうですね。「鐘」の 方が少ないのは、戦時中に兵器にするため供出してしまった からではないでしょうか。
あちらこちらのお寺の鐘楼で鐘ー梵鐘ーを撞いてみますが 材質や形に依って随分音色が違います。 現在では市役所から午後9時に流される音楽が時の鐘に なっています。

書き方が悪くて誤解を与えてしまったかもしれませんが, 鐘より太鼓の方が多いわけではないようです。 「全国に残る時の鐘 時の太鼓」というサイトによると, 現存している鐘は 33, 太鼓は 12 と書かれています。 (ただし このデータ どれだけ正確なものかわかりません。特に記載もれの 時の鐘・太鼓が いくつかありそうです。)
またこれによると 戦時中に供出されたものがあるように書かれています。
========== 丑三つ時・「一つ」? =============

【O さんから 】
「時の鐘」興味深く拝見いたしました
江戸時代の「不定時法」をやっと理解できたことがとても良かったです
いままで落語や時代小説などで「明け六つ」「暮れ六つ」と見聞きして 大よその 見当で勝手に理解していましたが、定義の仕組みが円図形でやっと理解できました

ところで何故?「江戸時代の時刻は一つ」から始まらなくて「四つ」から「九つ」 なのでしょうか?

【Y さんから 】
 古典落語を聴いていますと、小川さんの時刻表の通りです。 また最近の噺家は分かっているのだろうかと、疑問に思うこともあります。
 最近はまず演じられることがありませんが、「松葉屋瀬川(まつばやせがわ)では 昼間から時を勘定する言い回しがあり、この表を頭に入れていないとよくわかりません。

「草木も眠る丑三つ時」という言葉があります。 一つから三つまでが欠落していますが、なぜ4つから九つの繰返しなのか・・・ その解説もお願いします。

 時計を勘定する落語では時蕎麦が有名ですが、??
 ひぃ、ふぅ、みぃ、よぅ、いつ、むぅ、なな、や、なんどきで 「ここのつで」
 と、語呂はよいのですが、江戸時代、九つに、屋台が開いていたのかと疑問の思うのです。


【H さんから 】
 「時の鐘」とは六月にふさわしいテーマですね。いろいろ研究されて おられ、小川さんの研究心にはいつもながら感心させられます。

 ところで、一日の円グラフ?がありますが、「丑三つ」ではなく、 「丑八つ」となっているのは何故か。「草木も眠る丑三つ時」 と憶えておりましたが、「みつ」違いなのか。
 インターネットで調べると、「丑満」と書いてありました。
    (http://s-mizoe.hp.infoseek.co.jp/m143.html)
あーそうなんだと思いましたが、なんで私のFEPは「丑三つ」しか でないんだと思いなおし、「広辞苑」を調べてみたら、
   うし‐みつ【丑三つ】
    丑の時を四刻に分ちその第三に当る時。およそ今の午前二時から二時半。

となっており、「丑三つ」で、「丑八つの三つ」ということになりそう。
 しかし、「明六つ」「暮六つ」と同格で「丑八つの三つ」のことを 「丑三つ」というのは、私としては納得がいきませんね。これが江戸の 常識かな。

 それと、「四つ」から「九つ」で、「一つ」から「三つ」がないのも不思議ですね。 もしかしたら、「一つ」の時間に一回「コーン」と打っても気がつかない人がいるためかな。


【M さんから 】
時計の文字盤で九つから始まって四つで終わるのはなぜなのでしょうか? また、結構大雑把な時間管理だった時代に「草木も眠る丑三つ刻」などと、 真夜中の丑の刻(1〜3時)を4等分して30分毎に表現したのも不思議に思っています。
博識の小川さんの解説を期待致しております。

6月10日は「時の記念日」でしたね。「時の鐘」を 6月11日にアップしてから 気がつきました。そうと知っていれば もう一日早くしたのに・・・ 残念。

「博識の・・・」とおだてられても, 私のは 付け焼き刃の知識ですから あまりアテにしないでください。

「丑三つ時」について疑問を持たれた方が多かったようです。
やはり当時の人にも 2時間単位の計時では あまりに刻みが荒すぎる場面があったのでしょう。 一刻を4等分し 30分ごとに 一〜四 の名前をつける風習がありました。(まぎらわしい!)
ご指摘のように 広辞苑にも書かれています。
「丑満」という表現するのは 誤りとする意見もありますが, この表記も 結構普通に使われているようです。さらに これとは別に「上刻」「中刻」「下刻」などという区切り方もあったようです。 「申の下刻」という風に。

時間を十二支で表現した場合は たとえば「丑の刻」といい, 「丑八つ」というふうに 数字と併用する言い方は あまりしなかったのではないでしょうか。 したがって「丑八つの三つ」という表現はなかったように思います。
六つを 「明け六つ」「暮六つ」と区別したのは, この時刻だけが明るい 時間帯なので 午前・午後の区別が必要とされたのかもしれません。

時刻を「四つ」から「九つ」で表して, 「一つ」から「三つ」がない理由ですが, これは謎です。
「九」という数字に特別な意味があるのだ という説明もあるようですが, それだけでは「一つ」〜「三つ」がない理由にはなりませんし...

時に関する言葉に「お八つ」というのもあります。
江戸時代中期までは一日二食だったため, 午後になって「小昼」と呼ぶ 間食をした習慣があったようです。 そのため 午後の間食のことを「おやつ」という ようになったとか。 「未の八つ」のことで, 午後1時〜3時に相当します。

「なんどきだ?」の「時蕎麦」は 大変面白い噺ですが, 「江戸時代、 九つに 屋台が開いていたのかと疑問」という感想は 私も同様です。 話を面白くするための設定, ということで理解しましょう。
余談ですが, 上方落語では「時うどん」というそうですね。

【T さんから 】
何時もながら面白い内容、へ〜そうなんだっていう感じで読みました。
ところで小説に良く出てくる草木も眠る”丑三つ時”は昔の人は どのように判断してたのでしょうか? ご存知でしたら教えてください。

又私はよく神社仏閣に行き 鐘が有ると(時の鐘ではないのでしょうが、、、) みーはーなのですぐに撞きたくなって鳴らしてしまうのですが 昔の旅人は鐘を撞かなかったのでしょうか?


現代では 寺が観光地化してしまい, 観光客が鐘を撞くことを黙認(?)していることが あるようですが, 昔は 鐘の音は時報だったので, 勝手に鐘を撞くことは許されなかったと思います。 (例外はあるでしょうが。)
========== 和時計 =============

【O さんから 】
いつもながら良く調べられているのには感服します。
江戸時代の複雑な{不定時法}を完全にカバー出来る和時計は、 もしあったとすればどんな機構のものだったのでしょうか。
NHK TV が4月23日に放送した「万年時計の謎に挑むー 江戸 時代の天才 vs 現代の技術者」(NHK スペシャル) がその一端 を示してくれています。 田中久重という「天才」 の万年時計を 現代の技術者が復元した話です。 田中久重のオリジナル時計は 国立科学博物館に展示されており、その復元品は「愛・地球博」 会場グローバルハウス内に展示されている由です。
   http://www.nhk.or.jp/special/libraly/05/l0004/l0423s.html

【K さんから 】
 時刻を知らせる鐘は、疎開していた田舎で毎日寺から聞こえてきました。 「時の鐘」という名称は初めて聞きましたが、江戸ではいろいろなことをやっていたのですね。

 「不定時法を取り入れた“和時計”」の復元品「万年時計」が 愛地球博に出品されております。幅5cm長さ数mもある長いゼン マイを使い、日の出と日の入り時間で時間の間隔を変えるため に、特殊な歯車を発明、しかも一つ一つ手作りのギアですから、 よく江戸時代にこういうものを作ったものだと感心します。 まだ万博には行ってないのですが、テレビで紹介されておりました。


私もテレビを見ました。
昼と夜で歯車が入れ代わり 振り子の周期が変わるような機構があり, 更に 夏と冬で 振り子が動く周期を変えられるように 「タップ」を 手動で 切り換える仕組みでした。タップの切り換えは 人間が経験とカンでやるのだとか。
よく考えたものです。
========== 時間 =============

【O さんから 】
アバウトな時間で生活する時代でも、ベンジャミン・フラクリンが言 い広めた「時は金なり」という価値感覚はあったでしょうかね。 鐘や太鼓が知らしめる時間空間のほうが、現代よりも、 より人間的な生活があったのではないかと思えます。

【F さんから 】
昔は「生活に合わせて時があり」、今は「時に合わせて生活がある」といった感じですね。 そして「時」に振り回されている生活。 先日のJR宝塚線の大事故も「時の犠牲」だったんですね。 しばらくの間、昔のように「アバウトな時」で生活してみたいと思っています。

【O さんから 】
確かに小川さんが書かれている「当時の生活は 5分や10分を争う ような せかせかした生活はしなかった」が今求めらているように感じます。 時間を守れないのは悪だ との考えを捨てれば、JRの列車事故は防げたと思います。

【N さんから 】
先日の大阪でのJR列車事故を思い出すに、つくづく5分や10分を争うような 生活はよくないなーと。
また2-3kmも鐘の音が聞こえる東京(江戸)を想像するのもいいものです。 小さい頃、遠く隣町の半鐘の音を聞いた覚えがありますが、 2-3kmあったような気がします (当然田舎です)。


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