戻る
【大井川】へのコメント      [2002-11-23]


『大井川』に 多数のコメントをいただきました。 その中から 一部を紹介させていただきます。
  (長い文章は 適当に短くするなど, 勝手に編集させていただきました。)

【 Nさんから 】
大井川拝見しました。写真もさることながら、考証が素晴らしいですね。
いつも新幹線で素通りするばかりですが、機を見て蓬莱橋を歩いて渡ってみたいです。

【 Gさんから 】
大井川楽しく拝見 有難う御座いました。
 ・・・越すに越されぬ大井川 でこの渡しをよく耳にしていましたが 今回の はまだよりで、映画を見ているような気分で拝見しました。 舟を利用させない江戸幕府もさすがだと感心もしました。

 女性の肩車はほんとにどうしたのでしょう、老妻も推測できないようです。

 蓬莱橋の事は初めて知りました。ギネスにも載る そのような橋なのになんとか 手をかける方法は無いのでしょうか。写真も楽しいものでした。


【 Tさんから 】
 毎度ながらよく調べ上げるものだと感心させられます。

ところで、一点、「当時の女性が こんなはしたない姿をしたものだろうか。 そもそも, 和服姿で肩車なんて とても可能だとは思えないし, ましてや・・・ 」の 「・・・」は想像にお任せということだろうが、「小川さんが想像されたこと」と 本当のところはどうだったのか、教えてください。


あまり深い意味はありません。たぶん Tさんが考えていることと 同じだろうと思います。 (笑)
そんなことがあるので, 女性は わざわざ 距離が長くて 悪路も多い 中山道を選ぶことがあった ということです。

なお, 当時の女性は 旅に出るときは, (大名の奥方とか どこぞのお姫様でもなければ) チャラチャラした和服など着ないで, モモヒキみたいなものを着たのではないか, という意見がありました。それが正解かもしれません。

【 Yさんから 】
今月の初め,私も大井川を東海道線(新幹線ではありません)で渡ってきました。
川を渡ったときは 大井川だとは気がつかなかったのですが, 金谷で大井川鐵道の駅を見て知った次第です。
20数年前には金谷から大井川を遡り 寸又峡まで行き,蒸気機関車を見たことを 思い出した次第です。

【 Tさんから 】
何時もながら大変面白く読みました。
因みに 我が家の場合、渡しシリーズと特に関係無い旅でしたので 金谷から大井川鉄道(SL鉄道で有名な)で終点まで遊びに行きました。
その後 折角行ったので 寸又峡の温泉まで足を延ばしましたが、、、
それにしても 木造の橋の件 知らなかったです。

【 Oさんから 】
 正に「足で書いた物語」として、面白く読ませて頂きました。
 平凡社世界大百科、小学館スーパーニッポニカから、関 連の記述を拾ってみました。

 江戸幕府は、交通政策の一環として、河川の架橋を禁止 した。特に大井川は、幕府の防衛政策上、渡船も禁じた。
「渡し」は人改めの関所のような役割も果たしており、女性 の旅行者や負傷者 その他の不審者は留置し、早々に江戸 へ送るよう指示がなされていた。旅行者の自力による渡河 は認められないが、相撲取り、巡礼、非人などは例外とさ れていた。
 川留めになると、旅行者は周辺の宿に逗留せざるを得 ず、川明けになるまで3〜5日もかかり、時には1カ月にも 及ぶ事があり、旅費を使い切り難儀する事も多かった。

 1882年に大井川に橋が架かってから120年になります が、その間、東海道線の開通が どんなに画期的な出来 事であったか、飛行機、新幹線、高速道路の発達した今 日では 想像するのも難しいですね。


鉄橋の橋脚
鉄道といえば, 今回 東海道線の大井川鉄橋の下を歩いたのですが, その橋脚がすごかったので 写真を載せておきます。

手前の下り線用の橋脚は 鉄の帯でぐるぐる巻きにしてあって, かなり劣化が進んでいる様子です。
こんな橋の上を 東海道線の列車が 頻繁に通っていることを知って, 怖くなりました。

ちなみに 向こう側の橋脚は 上り線用のもので, これは 鉄板の補強はありません。 おそらく 下り線が先に造られ, 複線になった時に 上り線の鉄橋が造られたのだと 思われます。
また, 大井川鉄橋は 東海道線で最も長い橋だそうです。


【 Kさんから 】
(大井川のこと) 多少は知っているつもりでしたが、多角的な解説で知識が深まりました。

幕府の厳しい管理下では、時代小説に見られる様な「川越し人足が 川を渡る途中で 肩車や蓮台に乗っている人に割り増し料金を請求し、応じなければ川に投げ込んだり、 川留で宿を求める旅人に 法外な料金を要求する宿主 あるいは そんな宿主と結託する 悪徳代官の話」 などには かなりの脚色があるということが分りました。

 息子の家内の実家は 志太郡大井川町にあります。長い大井川の流域で川の名が町名 になっているのはここだけの様です。
河口近くの町ですが、堤防が二重になっているから氾濫の心配は全くなく、 住宅や工場が川の近くにも造られています。いつころ二重堤防になったのかは 調べていませんが、それ以前は度重なる氾濫に苦しめられていたそうです。

氾濫に備え、上流に向けて舟の舳に相当する部分をもった舟形の家が造られていたそうです。 氾濫に見舞われたときには、舳が濁流を分けて抵抗を減らして建物を守るという 仕組の河口の文化遺産ですね。これは舟形屋敷と呼び慣わされて幕末から明治期にかけ て数多く造られたものが近年まで残っていたそうですが、いまでは、 数えるほどに少なくなってしまい、歴史的建造物として保存されているとのことで、 一度訪ねてみたいと思っています。

河口近くは留鳥や渡り鳥のサンクチュアリで、町営の野鳥観測所があります。 一度訪ねた大井川港は近海漁業の港で、さくらえびやしらすが荷揚げされ、 静かな港というイメージでした。

氷川きよしの唄う〈大井追っかけ音次郎〉は〈矢切の渡し〉ほどの大ヒットには なっていない様ですが、昨年、この港の近くに歌碑が建てられました。 (これは蛇足でした)

  次は何処の渡しをお訪ねになるのでしょうか。
  大変楽しく読ませて戴きました。有難うございました。


詳しい情報をありがとうございました。
紹介いただいた項目を 調べてみました。リンクを書いておきます。

【 Oさんから 】
活動範囲が、全国津々浦々に広がりそうですね。
蓬莱橋の写真を見て、一昨年に行ったボルネオを思い出しました。
ジャングルの大木の間を渡る数十メートルの高さの キャノピーウォークという吊り橋があり、 この床板が、折れていたり、端が無かったり、とビビッた思い出があります。 ただし、手摺りは、高かったので、これが、大きい違いですかね。

【 Sさんから 】
何時も楽しい記事の送付ありがとうございます。
現地に出かけての取材だけに、自分がその現場にいるような錯覚にとらわれます。
蓬莱橋をわたりながら橋げたの穴から、勢いの良い流れを見て!はっとしたような気がしました。 まさに現場の体感転送があったような気分になりました。
ああ、ほんとに船酔いしたような気分です!チョットオーバーかな?
天気の良い日に行ってみたいと思います

【 Mさんから 】
新幹線では大井川は何回も通りましたが、いつも一瞬で通りすぎてしまいます。
昔は大変な苦労で渡ったものですね。改めて昔の旅の費用が膨大であったことを 思い出しました。
でも、蓬莱橋は気持ち良さそうですね!

【 Mさんから 】
大井川は、新幹線で「わっ」と通り過ぎるだけで、止まってしみじみ 景色を眺めたことがありません。気付いてみれば、こんな旅(移動) では情けない。どこか間違っているような。

読ませていただき、ヘーとか、あれっとかありました。
例えは、江戸時代に橋が無かった大きな川は、他になかったのかなぁ。
敵は一方からしか来ないわけでもないだろうに。攻めにくいのは 逆に逃げにくい。どうするつもりだったんだろう。
渡る途中で転倒事故がきっとあったはず。どういう保障をして いたんだろう。
川底に石を置いて、浅いところを作っておいたんだろうか。 などなど。
一文、30円というのは、そんなもんだったんですか。新知識。

さすが小川さんで、大井川まで出かけるところが、なんとも。
で、次は、橋へ繋がるのか、川へ繋がるのか、それとも、新たな展開か。 期待しております。


【 Iさんから 】
久しぶりに 小川さんらしいタッチがもどってきたような 楽しいサイトでした。

メインサイトは画像がでなかったり、とってもおそかったところがありました。
ミラーサイトに切り替えてからは すいすいでした。次回楽しみにしてますよ。


【 Hさんから 】
 入口の説明看板   (図をクリック ⇒別windowに拡大表示)
上記のアクセスできなかったのが残念でした。
 詳しく良く調べてありますね。大井川、蓬莱橋共に観光旅行で見に行きたくなりました。

はまだより は   ( http://hamadayori.com/ )  です。現在は 図をクリックすると 正常に大きな図が表示されています。
Iさんがアクセスされた時は たまたまサーバーが不調だったのかもしれません。
時々 サーバーの調子が悪くなって アクセスできなかったり,非常に反応が遅くなったり することがあり, ご迷惑をおかけします。 無料のサーバーを利用しているので 仕方がないか…と思っています。

戻る