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【隅田川】へのコメント      [2002-9-21]


【お詫び】

『隅田川』本文をアップして数日後のこと。 私のパソコンが ウンともスンとも動かなくなり, やむを得ず OS の再インストールをする羽目になりました。 しかも ディスクのフォーマットをしたため, 記録していたデータを全部紛失しました。
こういう事態を予想して, 普段から データのバックアップをするように 心がけていたので, 大部分はそこから復活できる...はずだったのですが, バックアップに漏れがありまして, あとで気がついたら 6月以降当日までのメール (その他 一部の大事なデータ) が なくなっていました。大ショックでした。

みなさんから 多数のコメントをいただいていましたが, そんなわけで 全部 消滅してしまい, 今回の 「コメントのページ」は 中止せざるを得なくなりました。 せっかくコメントを送ってくださった方には 大変申し訳ないのですが, ご了承ください。

また 送られたコメントは, 誰からどんな内容のメールをもらったのかは ほとんどわからなくなり, 個々にメールをすることもできませんでした。 この場を借りて コメントのお礼とお詫びを 申し上げます。

・・・ と, このまま終わってはあまりに芸がないので, 「隅田川」本文に 若干の補足をしておきたいと思います。


(1) 隅田川は 荒川 だった

本文にも書いたように, 江戸時代以前の隅田川は 利根川の下流だった。
“利根川東遷”の大事業が行われ,利根川が向きを変え 太平洋に直接流れるようになった後は, 隅田川は 元荒川や綾瀬川の水を集めて “荒川” と呼ばれるようになった。
それなら 現在 荒川 と呼ばれている川はどうだったかと言うと, “現在の荒川は 当時は存在しなかった”のである。 現在の荒川は 大正〜昭和にかけて 人工的に開削された川 である。

明治43年 関東南部の大雨によって 大洪水が発生し, 荒川 (隅田川とその上流) は 数十ヵ所で 堤防が決壊し, 東京の下町の大半が水没するという 莫大な被害をもたらした。 (人口の少なかった当時, 150万人が被災したと言われる。)
この反省から 隅田川の東側に 新しい川を掘ることが計画され, 20年の歳月をかけて 昭和6年に 新荒川が完成し, 「荒川放水路」と呼ばれることになった。
「荒川左岸」
最近 佃島を散歩していたら, 隅田川のコンクリート護岸に 右のようなプレートが 貼られているのを見つけた。

   昭和39年度施行
 荒川左岸(月島)護岸建設工事
   昭和40年3月31日竣功
と書かれている。 隅田川の公式な名称が "荒川" だったという証拠になるだろう。

隅田川が 正式に「隅田川」と呼ばれるようになったのは, 昭和40年以降のことである。

《参考》 「荒川の洪水と治水事業」
「隅田川の由来」


(2) 「○○チビル」

ある人が教えてくれたが,隅田川畔にそびえる アサヒビール本社ビルについて, アサヒビール名誉会長の樋口広太郎さんが 日経の「私の履歴書」に そのいきさつを 面白おかしく書いている。
あのビルは 建物が聖火台の形をしていて, "聖火台と聖火"のようなものを表現しようと しているらしい。

・・・(本社ビルの)隣にホールをつくり, その上に金色の炎の 形をした巨大なオブジェを置いたが, これがなかなかそう見 てもらえなくて, 「ウンチビル」というあだ名を頂戴した。 当初の構想では, 炎がビルを貫くような形にするつもりだった が, 構造上問題があってできなかった。
 デザインは, フランスのフィリップ・スタルクさんに頼んだ。・・・ 「スペインの大建築家, ガウディを超えるものがつくれるか」と 尋ねたら, 真っ青になったが, 「考えてみる」といって帰っていっ た。 四日目にひげづらで現れて, 「ずっと考えていた。 やら せてくれ」と言うので, 任せたが失敗や。 垂直に立てるつもり が, ごろんと寝てしまった。
 変わった格好になったが, よく見ると面白い。 百年たって風景 に溶け込んだ エッフェル塔の例もあると思っていたら, たちまち 有名になってしまった。
(日経 2001/01/11) 


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