[2005-8-15]
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円筒分水

[2005-08-05]


川崎市に“二ヶ領(にかりょう)用水”と呼ばれる 農業用水がある。 徳川家康の命を受けた 小泉次太夫が 14年の歳月を費やして, 1611年(慶長16年=将軍秀忠の時代)に完成した人工の水路で, 当時の “川崎領”と“稲毛領”にまたがっていたために“二ヶ領”という名がついた。
ちなみに, 多摩川の対岸(東京都側)には“六郷用水”と呼ばれる水路ががあるが, これも同じ小泉次大夫によって 同じ時期に作られたもので, 世田谷領・六郷領を流れるため 合わせて“四ヶ領用水”と総称することもある。

二ヶ領用水は 多摩川の 稲田堤と宿河原付近の2ヶ所で取水されて, 枝分かれしながら ほぼ川崎市全域をカバーしていた。 幹線の水路だけでも 全長約32kmあったと言われ, 流域の60ヶ村の田畑を潤し, 米の収獲量が飛躍的に伸びたと伝えられる。
明治以後は 一部が上水道に利用されたり, 工業用水として使用されたりしながら 太平洋戦争後まで利用されていたが, 川崎市の都市化と農業の衰退により 用水の利用は大幅に減少し, 現在は 多摩川大橋付近から下流の水路は埋め立てられ 消滅している。
久地分量樋
久地分量樋 (明治43年)
円筒分水
円筒分水

この 二ヶ領用水が 平瀬川と交差する所(川崎市高津区久地)に 「円筒分水」と呼ばれる 珍しい構造の分水機構がある。
「分水」とは 文字通り 一つの流れを いくつかの流れに分流させることで, 農業用水では 水の流れる量が 作物の収穫高に密接に関係するだけに, 非常に重要な機構であり, 時に 水争いのタネになることがある。
通常 一つの流れを分流させるには, 流れの先に 平面的に 樋(水門)を設け 複数の流れに分ける。割り当てられた水量に応じて 幅の違う水門を設けるのだが, 流れが速い川の中央部と 緩やかな川岸とで流量が異なり, また川底の凹凸による水量の差があったりするため 実際には正確な分水は難しく, 特に渇水期には 水の量をめぐって争いが発生する原因となる。

二ヶ領用水でも 耕地面積に応じて 分水の比率が定められて, 長い間 分水樋 (久地分量樋) により運用していた。
左上の写真のように 用水の流れを木製の樋で分水する施設で, それぞれの灌漑面積に応じて 水路の入口の幅が決められていた。 しかし その水量をめぐって水争い (溝口村水騒動) が絶えず, 悩みは 昭和初期まで続いていた。

そこで 1941(昭和16)年, 平賀栄治(農業水利改良事務所長) の設計により 「久地円筒分水」が造られた。


二ヶ領用水の水は 多摩川の支流である平瀬川の下をコンクリート管で潜り, 円筒分水の中央の円筒から噴き上がってくる。
直径8mの内側の円筒は, 噴き上がって波立った水面の乱れを抑える整水壁となり, さらにその外側の直径16mの筒内で静水面を作り, そこから溢れる水が 円筒の外側に流れだし, 4本の堀 (川崎堀・六ヶ村堀・久地堀・根方堀) に 分配される。
円筒の上面が完全に水平であれば,どの方向にも 均等に水が溢れるため, 円筒の外側を 定められた比率に正確に仕切ることにより, 全体の流量が変化しても 各堀に一定の比率で分水されるようになった。

昭和16年といえば それ程古い歴史があるわけではなく, “農業遺構”と呼ぶのは あまりふさわしくないかもしれないが, 水量が変化しても 常に一定の比率で分水されるこの円筒分水は, 当時としては 最も正確で 画期的な分水機構と言われ, 現代の目で見ても 大変合理的な構造である。 その後 全国各地で作られた円筒分水の草分け的存在である。
戦後 円筒分水を視察したGHQの農業土木技師により アメリカにも紹介されたという。

現在 同様な構造の分水機構は 全国各地に見られ, 約30ヶ所にもおよぶという。 有名なものでは, 岩手県の徳水園, 大分県竹田市の音無, 熊本県の通潤橋付近 などがあり, 九州地方では「円筒分水」ではなく「円形分水」と呼ばれている。


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